僕もスマホにしてから随分立つが、惰性でスマホを触ることが格段に増えた。
一昔前はそれがドラゴンボールの「ドッカンバトル」というゲームアプリだった。
どれだけの時間がスマホに消えているだろう。
スマホネイティブじゃない僕がそうなのだから、今の高校生などは本当に大変なんだろう。
平井堅さんの「ノンフィクション」という名曲がある。
その中に惰性で観てたテレビ消すみたいに生きることを時々やめたくなる、という痛烈な一節がある。
その曲を聴いてから、確かに現代人は惰性で時間を、暇を潰すように生きているなと思い知る。
文明の進化でやらなくていいことが増えて、実はすごく暇で、逆にやらなくていいことで暇を潰して忙しい。
江戸時代なら、働いて糞して寝る。
それだけで精一杯だっただろう。
ドッカンバトル以降の、僕の惰性の時間の対象は、専らネットニュースだ。
何の身にもならないコタツ記事に当たって、なんでこんなもの読んだんだと落ち込んだことは数知れない。
そうして見出しに騙されない力もつけねば。
ただ、その惰性の時間で発見して、僕の人生を豊かにしてくれたこともある。
昨日から読んでいる俵万智さんの「生きる言葉」などは、正にそうだ。
俗にいう切り抜き記事みたいなものから、読んでみたいと思い、書店に足を運んだ。
ネットの惰性の時間がなければ巡り会えなかった出会いだ。
「生きる言葉」を読んでいる間は、惰性の時間ではない。歓喜の時間だ。
電車が着くまで暇だからスマホをいじろうか、ではない。
え、もう、電車着いちゃったの?早いな。キリのいいところまで読ませてくれ、である。
この時間の差が分かるだろうか。
ちなみに、帰りの電車も一瞬だった。
歓喜の時間は、暇を潰しているのではない。
そのこと自体が目的なのだ。
歓喜の時間を過ごすために、惰性の時間があるならそれも悪くないと思いたい。
無いに越したことはないけど。
ハズレをひいた分、当たりへの嗅覚も育つのではないか。
僕はもっと歓喜に出会いたい。
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