2020年6月18日木曜日

偏見と差別

最近、黒人差別の問題が論じられています。
例の、アメリカで首を警官に絞められ続けて命を落とされた事件に端を発しております。
許しがたい事件です。
逆に行き過ぎた平等主義や、差別廃絶の過激デモ等にも心をいためております。
怒りと暴力だけでは結局、不幸になるしかない。


僕は「正直な」反応をしようと決めている。
例えば、大声で知的障がいの方が電車の中でわめいていたとする。
勿論差別はいけないのだが、純粋に「迷惑」であるのは確かだろう。
こちらに急に話しかけてきたらめんどくさいな、とも思う。
この「思う」こと、思ってしまうことは正常だと思う。
だから「差別いけない」という気持ちは大切にしたいのだが、そう思ってしまう気持ちだけは制限してほしくないと常々思っていた。

だから、

黒人だ
白人だ
コロナ感染者だ
アジア人だ
中国人だ
韓国人だ
外人だ
同性愛者だ
障がい者だ
原発放射能で汚染された人だ

といった、人権が守ってくれているもの。
みんなが触れてはいけないと思っているもの。
否定的な発言をすれば袋叩きにされるようなもの。
そこに色んな差別的感情がわいてくることを、一概に悪にしていいのかという疑問があったのです。

コロナ感染者の人がいたら、やっぱり「来ないで」と思ってしまうと思う。
それを差別と呼んでいいのかよと。


今日テレビのワイドショーを観たんです。
そこで黒人差別の問題について話していて、
非常に腑に落ちたのだが

偏見は、
片寄ったものの見方
差別は、
偏見などによって低く扱ったりすること
なのだそうだ。
僕は差別は「実際に行動を伴ってしまうもの」という風に解釈しました。

つまり電車の例で言うと、
僕が迷惑だなぁと感じてしまうのは偏見。
「黙ってろ、知◯遅れ」と、言ってしまうのが差別ということになるのではないか。

コロナ感染者の人に「来ないで」と思ってもいい。
しかし、必要以上に完治してからも接触を避けるのは差別になるのであろう。

差別はいけない。
しかし、偏見を持つことは許して欲しいと思っていたのだと分からせてもらった。

差別はしないが、区別はする。
差別はしないが、偏見は持たせてもらう。

例えば、黒人の人は身体能力や、音楽のリズム感が優れている人も多い。
知的障がいの方は、芸術や、職人のような作業には素晴らしい才能を発揮するような話もありますよね。

もともと違うということをわかるということ。

そのくらいでいいのではないかと思ったよ。

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