2026年5月8日金曜日

演じる、ということ

 演じる、ということ


昨日は長々と、交通事故のことに対して語ってしまいました。読んでくださってありがとうございました。

今日は仕事場で、交通事故の振り返りの研究会(反省会)が開かれ、更に自分の身体に落とし込めたと思っております。


今日は僕が勉強した「演じる」ということについてお話させてください。

今日も長いですが…笑

何故これを書きたくなったかというと、京都の南丹市の事件の動機の供述を読んだからです。

辛い方は、これ以降お控えください。

予想以上にヘビーな内容となってしまいました。40分ぐらいかかりました💦




まず、南丹市の事件のことと「演じる」ということを結びつけてしまう苦しさはあります。

教材のようにして、命を軽く扱うつもりはございません。

よろしくお願いします。




ご存知のように、南丹市の事件は、児童が行方不明となって騒然となったのですが、義父である容疑者が、児童を殺害したとされています。

(ここではまだ犯人とは呼びません。)


僕もまた、一人の父親として、この事件が全く理解できなかったし、容疑者が手をかけたとしたら「義理の息子だから殺せてしまったのだな」という気持ちにもなりました。


ですが、昨日か一昨日かな、容疑者の、動機を語る記事があってね。

『本当の父親じゃないくせに』と言われ、犯行に及んでしまった、という内容だったんです。

…それが僕にはとてもショックで。

その理由をのちのち記します。



ここから「演じる」という話になります。

僕が学んだ演劇論ですが。

役を「演じる」ということは、嘘であってはならないし、信じられる感覚が必要になります。

つまりは別人になりすます訳ではなく、自分がこの役を演じるには、どうしたら理解ができるのかを、真剣に探るのです。

(探らなくても、演じられてしまう人を天才と呼ぶのだと思います)


南丹市の事件であるなら、

何故、義理とはいえ、息子を手にかけてしまったのか。

そうせざるを得なかった理由がなければ、人を殺すことなどできないのです。人を殺す役など、責任が重すぎてできないのです。

「義理の息子だから殺せてしまったのだな」では、あまりに人物の捉え方が浅いのです。ワイドショー的な役作りでは、太刀打ちできないのだ。



そこで、容疑者の【『本当の父親じゃないくせに』と言われ、犯行に及んでしまった】という部分にすごく、僕は痛みを感じました。

やっと、この人の何かを感じた気がしたんです。

人間とは思えない人間の犯行から、人間がやってしまった犯行になったんです。


犯行当日の朝、容疑者は児童を、学校まで送っていっています。

降ろさず、そこから犯行に至ってしまうわけだけど。

本当の育児放棄であるなら、送迎すらもやらないはずです。家の近くで衝動的に殴ったり、自宅で犯行におよんだりしてるのではないでしょうか。


僕はね。【『本当の父親じゃないくせに』と言われ、犯行に及んでしまった】という言葉に。

ギリギリまで愛そうとしていた、義理の父親の、苦悩を感じ取ってしまったのです。

どうにか、本当の父親になりたかったんじゃないか。

認めて欲しかったんじゃないか。

何の関心もなかったから、連れ子を殺した訳じゃない。

誰よりもその連れ子に好かれたかったんじゃないかと思ったんです。


勿論綺麗事かもしれない。事実はわからない。

愛してなんかなかったのかもしれない。

でも、事実婚ではなくて、再婚をして。

容疑者は、何か、新しい家族の形を作ろうともがいていたんじゃないかと。

そう、思ったんです。


報道によれば、容疑者と児童は仲が悪かったそうです。

周りの親族からは、結婚を総反対されていたそうです。

だから、人の心を持たない冷酷な人間がやった犯行だと。

ワイドショーや週刊誌は書きたがる訳です。

だが、演劇的思考は、それでは絶対にいけない。

そんな表面だけの人間がいるだろうか。


殺人犯の役が来た時、役作りで実際に人を殺すことはできない。

だから、何故その人がそうなったかを理解して、想像するしかない。

殺そうなんて絶対に思えない、のでは、殺人犯の役はできない。

誰だって、人を殺したいと願ったり、人に暴言を吐いたりしたことはあろう。

そういう、人を憎む気持ちを総動員して、役作りをするのだ。


不倫をする役が来た時、役作りで不倫したら社会的にマズい(笑)。

だから、何故その人がそうなったかを理解して、想像するしかない。


盗みをした役が来た時、役作りで盗みをすれば捕まる。

だから、何故その人がそうなったかを理解して、想像するしかない。


汚職に手を染めた政治家の役が来た時、大量虐殺をする役が来た時。

汚職に手を染める気持ちを、大量虐殺に至った背景を。

役者は考えて、想像して、理解して、自分もそうなる可能性があるなと。

その役を一人の人間として、扱うのです。

おとぎ話ではなく、空想の人物ではなく。


僕が女性詞を歌う時もそう。

僕は女性じゃないから、演じるしかない。

でもそれが、おとぎ話ではいけない。

生身の唄でありたい。

ならば僕の中の女を、探す。

浮気の唄を歌うなら、浮気したくなる気持ちを理解してから歌うのです。実はね。



冒頭で言った、容疑者の言葉にショックを受けたという理由はね。

小学生の義理の息子を手にかけたという、その気持ちがね。

1%かなんなのかわからないけど。

少しだけ、ほんの少しだけ、理解できてしまったから。

僕も小さい命を手にかけてしまう可能性がゼロではなかったと、知ったからなんだ。


だから、こんな演劇論を持ち出して今日も長文を書いているのだ。

ただ、ただ、恐ろしかったのだろう。

理解なんか、したくなかったんだよ。


やらないです。

やらないです。けど。

人間は何かのキッカケで大きな過ちをおかすことがあるんだってね。

僕らは沢山の物語や、史実で知っているから。



本当の父親じゃないくせに。


俺のこと、愛してなんかないくせに。

勝手にセックスして産んだくせに。

産んでくれって頼んでねぇよ。

お前の息子で恥ずかしいわ。


思春期の息子に、こんな言葉を言われたら。

僕はどうにかなってしまうと思う。

そして、その時に悲しむか、息子のことを恨むか、するんだろう。

そして、僕はそういった言葉を、親に吐いてしまったことはある。


本当に愛して貰ったんだなと、今、なお思う。

暗くてごめんな。

しまっておけなかったのさ。

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